評価すべきは彼らの「決断」で「無理して出場したこと」じゃないよ?
個人的にはあんまりスポーツ観戦て興味ないんだけど、この一連のニュースにはちょっと思うところがありました。
Yahoo!ニュース - 羽生「感動」だけでよいのか(2014年11月9日(日)掲載)
感動したぞ!羽生、激突で大出血も滑りきり「銀」 フィギュア:イザ!
アクシデントを乗り越え、それでも演技しきった姿に「感動した」と手放しに絶賛する声と、「命に関わる怪我、棄権させるべきだったのでは?」といった意見がネット上には溢れている。
羽生選手の「出場したい」という意志はよくわかるし、彼の決断をどうこういうことはしたくない。ショートプログラムも終わって、いざ逆転と本人のモチベーションも高まっていただろうし、現役の選手としてのエゴもあったと思う。
コーチ陣の決断も、羽生選手本人の気持ちだけを尊重したものではもちろんないだろう。本当にまずいと思ったら、選手がなんといおうが「棄権」させるのが彼らの仕事だし、そう判断しなかったということは、それなりの根拠があったと考えるのが妥当かもしれない。
僕は結構ドライに考えちゃうから今回の出場という判断が羽生選手の選手生命を縮める結果になったとしても「まあ、自分たちがやりたいっていったんだししゃあないよな」と考える。まあ、命にかかわるような事態になったら話は別だけど。
だから、彼らの決断をどうこういうつもりはない。
ただ、今回の件で懸念しているのは「日本男子はかくあるべき」という強迫観念にも似たテンプレートが、保守的な考えをする人たちの間でより強固なものになったので?ということである。
今回の羽生選手の決断を間違った風に解釈して「日本男児なら、倒れるまでガンバレ」的な雰囲気が、また世の中で幅を利かせるんじゃないかなと。
ちょっと話はズレるけど、高校生の時、こんなことがあった。
春の遠足行事で、その日僕らは近所の公園でBBQを楽しんでいた。ちなみに僕らの高校は私服通学OKだったんだけど、伝統的に野球部だけは学ランを着ることになっていた。もちろん彼らは全員坊主頭。だからどいつが野球部かってのは、僕らの学校の伝統を知っている人から見れば一目瞭然だったのだ。
で、学校行事だからもちろん平日に行われたのだけれども、公園には会社を引退したおじいちゃんも何人もいた。そのおじいちゃん達は、僕らの高校が毎年春にその公園でBBQをしているのを知っていたらしく、「今年も頑張ってるな」と声を掛けてくれた。
まあ、それじたいはありがたいことだし、そうやって地域との人と交流するのは大切なことだ。
「にいちゃんは、何のクラブやってんだ?」
「あ、僕は新聞部で学校新聞書いてます」
「何のクラブ」と聞かれたので、僕は正直に答えた。別に隠すことでもないし、恥ずかしいことだとも思っていなかったから。でも、彼らの反応は僕の想像しえなかったものだった。
「はあ?新聞??な〜に情けないことやってんの!」
「なんかスポーツやってないの?」
中学生の時はバスケットボール部に所属していた僕。体を動かすことは好きだったし、バスケットボールという球技は、本当に大好きだった。でも、僕には体育会系の文化が合っていなかった。今考えても意味不明で理不尽な上下関係や、毎日の厳しい練習。もちろん運動部のあり方を否定するわけではないし、一つのスポーツに打ち込み、切磋琢磨することは素晴らしいことだと思う。でも、体質的に僕には運動部は合わなかったのだ。
「男のくせに情けないなー、お前!!」
さっきまで友好的だったおじいちゃんたちの口調が、急に攻撃的なものになった。
「さっきの野球部の連中はあんなにしゃきっとしてるのに、お前は本当になよなよしてるなあ。勉強ばっかやってねーで、運動しろ、このろくでなしがっ!」
確かそんなふうなことをいわれて、僕はいたたまれなくなってその場を後にした。
こういった価値観は、結構日本のいたるところにはびこっていて、いまだに青春はスポーツに打ち込むべきだ、そうでないやつはダメだ、的な風潮がある(特に地方では)。そしてその延長線上として、いわゆる「倒れるまで頑張るべきだ」的な価値観が善として認められているのが日本の社会だ。
逃げたら負けなんだと。
結果どうなったか?無理をして倒れるまで頑張って、体と心を壊してしまう人が続出してしまった。「あいつはあんなに頑張っている。なんでお前は頑張らないんだ?」という理不尽な理屈で、無理をすることを強要されてしまう。
たちが悪いのは、強要してる側だけじゃなくて、されてる側もそれが当たり前だと信じていることだ。「できないのは自分が悪い。結果を出せないのは自分の能力や努力が足りないからだ。だから自分はもっと頑張らなきゃいけない。羽生選手だって倒れて血を流しても頑張ったんだから!!!(←ここ重要)」
忘れちゃいけないのは、羽生選手は羽生選手であって、あなたは羽生選手ではないということ。
人には向き、不向きがあるように、プレッシャーに対する耐性ももちろん違います。
同じ仕事をこなしたとしても、全くへっちゃらな人もいれば、精神にとても負担がかかってしまう人もいます。
どっちが優れているとかいう問題じゃなくって、そういうものなのです。
人は人、自分は自分。違っていて当たり前。つらかったら逃げたって良いんです。
大切なのは、自分の現在の力量やキャパシティをきちんと把握して、決して無理をしないこと。そして、ヤバいなと思ったら、早めに勝負からおりること。いいんです。今勝てなくたって。てか、むしろそいつに勝つ必要なんてあるんですかね?
今回の試合で、羽生選手とコーチ陣は「出場」することを選びました。
彼らの決断は尊重すべきだし、万全の体調でない中、最後まで滑りきった羽生選手は賞賛されるべきでしょう。
でも、勘違いしてはいけません。彼らはいろんなモノを総合的に判断して、その上で最終的に「出場」という判断を下しただけです。それは決して根性論や精神論で片付けていいものではありません。
価値があるのは「怪我をおして出場したこと」ではなくて「出場」という決断を下して「すべての責任を自分たちで持って」なおかつ「結果を出した」ということです。
もしこの決断によって羽生選手の選手生命が縮んだとしても彼らはその後の「批判」もすべて受け入れる覚悟で今回の出場を決めました。
もしかしたら「棄権」という決断もあったかもしれません。
本当に彼らを応援する気のある人は、きっと「棄権」という決断も受け入れたでしょう。「こんな不本意な結果に終わったけど、でもよく決断してくれた」とその決断を賞賛したことでしょう。
でも、今彼らの決断を賞賛する人たちの多くは、きっとそうじゃない。「怪我をおしきって出場したこと」に美学を感じている。そんな彼らがもつ価値観が、僕はとっても恐ろしい。