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30過ぎの一般事務職(男)の日々雑感

30を過ぎ、未だに一般事務(書類整理、エクセルへのデータ入力など)の仕事しか経験したことないけど、人生何とかなるもんだ、的なブログ。

古典は果たして時間をかけて読む価値があるのか?その1.

あんちえいじゃーの頭の中

どうも、あんちえいじゃーです。

 

いやあ、大分ブログを放置しましたね。

 

さてさて、先日ある雑誌をパラパラと読んでいたら、こんなフレーズが目に入りました。

 

「自分は限りある時間を有効に使いたい。だから、古典を読む」

 

確かこんな感じ。いや、内容はうろ覚えだけど。

 

いわゆる意識高い系の人が好んで読みそうなビジネス雑誌でも、たびたび「一流の人が読むべき古典」だとか「教養をつけるために抑えるべき○册の古典」みたいな特集が定期的に組まれている。

 

それほどまでに、古典を読む人、何冊も読んできた人たちに対する僕たちの評価は大きい。どっかのエラい経営者は、みんな古典を読んでいるし、古典に全ての答えが書いてある、みたいなことをどや顔で語る人は多い。逆に古典さえ読まない人は、一流ではないのだそうだ。

でも、ちょっと待って欲しい。

 

ぼくたちにとって、古典とは本当にそれほど価値のあるものなのだろうか?

 

結論を書くと、ぼくはそれは間違っていると思う。

わざわざかぎりある時間を、読み込むのが難解な古典作品を読み込む為に使うべきではない。

 

なぜか?

 

まず第一に、古典は難しい。

なんで難しいのかというと、古典と言われる位だから、それが書かれたのは今より何年も前の時代で、当時の書き言葉と、今の書き言葉が全然違うからである。

インターネット全盛期で、「流行語大賞」なんてものがある現代の言葉の移り変わりに比べれば、そりゃあ昔は言葉の変遷もゆっくりしたものだったかもしれないが、それでも100年も前に使われていた言葉は、今われわれが日常的に使っている言葉とはずいぶん違っている。

 

試しに大きな図書館で、50年前の新聞でも読めば分かると思うけど、読み解くのはかなり大変だ。50年前でそうなのだ。まして、その倍の100年前に書かれた書物の、それも偉い人が書いた小難しい文章を読み解くのは、並大抵のことではない(余談だが、偉い先生の書いた文章は、例え同時代の人であっても読み解くことが大変なことはしばしばある)。

 

つまり古典を読む為には、その内容を吟味する前に、言葉の壁を乗り越える必要がある。これは、普段全く英語の勉強をしていない人に、いきなり英語のペーパーブックを読ませることと等しい。それほどまでに当時使用している言葉と、現代で我々が使用している言葉は違う。

 

第二に、古典をしっかりと理解するには、当時の時代背景を知る必要がある、ということだ。

 

今年は戦後70周年ということで、第二次世界大戦を振り返った特集が、あちこちで組まれてきた。ちょっとでも歴史に興味がある人は分かると思うけど、当時の日本は、今では考えられない信条のもと、冷静に考えれば100%勝ち目のない戦争に自ら乗り込んでいった。

 

例えば戦中の日本で、「この戦争はおかしい」と声を上げることがどれほど大変だったかは、想像に難くないだろう。戦時中に書かれた「この愚かな戦争を始めた政府は愚かだ」という文章と、戦後何十年もたった後に書かれた「あの戦争を始めた政府は愚かだった」という文章では全く意味合いが違う。

 

まあ、このたとえは適切じゃないかもしれないけど、それでも古典に書かれていることをきちんと理解する為には、その古典が書かれた当時の時代背景や、当時の常識をきちんと抑える必要がある。よく言われることではあるけれど、古代ギリシアでは、奴隷は市民とは別の存在だと考えられていたし、あの著名なソクラテスでさえ、奴隷制を正面から批判してはいないのだ。

 

何が言いたいのかというと、どんなに偉い人だって、その時代時代のバイアスには影響を受けずにはいられずに、そういった背景を全く考慮せずに上辺だけで古典の言葉をありがたがることに、果たしてどれだけ意味があるのだろうか?ということは、常に頭に入れておく必要があるということである。

 

そして、それを理解する為には、古典以外にも多くの書物なり情報を仕入れる必要があり、結構時間を取られる。僕は大学でルネサンス期のフィレンツェを勉強していたから、マキャベリの「君主論」に書いてあることを割と興味を持って読むことができるけど、そうでない人にとって、はたしてどれだけ彼の「君主論」を正確に読み解くことができるのだろうか?(そもそも「君主論」で理想的な人物としてあげられていたチェーザレ・ボルジアについて知っている人がどれだけいるのか?また、この本を献上されたウルビーノ公・ロレンツォについて知っている人が、どれだけいるのだろうか?)。

 

実体験として、時代が古くなればなるほど、また日本という国から遠く離れれば離れるほど、そこで生まれた古典をきちんと理解し、味わうことは難しい。ぼくは正直、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の意味が未だによくわからない。ましてやイーリアスにおいてをや、だ。

 

たかだか1冊の本を理解する為に、膨大な時間を勉強することに、果たしてどれだけの価値があるのだろうか?

 

また、3つ目として、古典というのは総じて長いということがあげられる。文庫本で1,000ページ越えとかザラである。しかも、改行もされていない旧字体の文章でびっちりとページが埋め尽くされている。たまに何行目まで読んだか分からなくなるときがある。

 

正直、読み切れる気がしない(改行しろや。行間あけろや。それだけで、ずいぶん読みやすくなるぞ、出版社!)。

 

そして、それをきちんと時間をかけて読み切ったところで後に残るのは「この長大な文章を、おれは読み切った!」という満足感だけで、「何を学びましたか?」と聞かれても、言葉に詰まる。だって長過ぎるから、最初の方なんて全然覚えていないんだもの。

 

とまあ思いついた限りのことをあげただけだが、わざわざ時間をかけて古典を読むことが、それほど有意義な時間の使い方ではないということがお分かりになったのではないだろうか。

 

それよりも、今現在起きている問題をきちんと理解し、それについて書かれた本やネットの記事を読んで、自分の考えをブログにアップした方がどれだけ有意義な時間を過ごせるだろうか?

 

古典を読んで、昔の人の言葉を偉そうに引用して教養人の仲間入りをしたと悦に入る前に、自分の頭で考えて、自分の言葉で意見を言えるようになることを、まずは目指すべきではないだろうか。

 

なんてね。