文系学者よ、プライドを捨て、ストナンに繰り出そう!
大学の再編が進んでいる今日この頃。ついに少子化の波は国立大学にも及びはじめた。リンク先をみると、特に人文系の学部の見直しが活発とのことだ。
なぜ人文系学部の見直しがすすめられているのか?
それは、文系の学問の存在意義が失われつつあるからだ。
では、人文学を始め、文系の学問は、本当に意味の無いものであろうか?
ぼくはそうは思わない。
問題なのは、文系学問そのものではなく、それに関わる人たちの姿勢である。
どういうことか?
文系学者たちは、自分の学問は専門的で、他の分野の人には分かるはずは無い、という妙ちきりんなプライドを持っている。なぜ彼らはそのようなプライドを持っているのか。
それは、同じオタクである、理系のオタクたちとの世間での待遇の差であろう。
理系のオタクたちは、世間で賞賛を浴びるようになった。例えばノーベル賞なんて、まさにその好例だ。でも、文系のオタクたちには、そんなものはない(文学賞はあるけれど、あれは文系のオタクのものではない)。
そしてノーベル賞でなくとも、理系の専門分野を極めれば、文系の専門分野を極めるよりも、遥かに多くの収入を得ることが可能だ。でも、文系の学問をきわめても、理系のようにそれが即職業に繋がることはほとんどない。もちろん理系でも、分野によっては即職業に繋がるわけではないことは断っておく必要はあるだろう。しかし、文系の学問に比べれば、よほどマニアックな分野を選ばない限り、そのようなことはないであろう。
だから彼ら文系の専門家は、より偏屈になり、より世間から遠ざかり、自分の唯一のアイデンティティである学問に固執するようになるのだろう。
これは非常にもったいないことである。なぜなら、彼らのそのような態度によって、文系の学問が持っている長所が潰されているからである。
文系学問の長所は、問題に対するアプローチの応用力が大きいことだ。
例えば経済学的なアプローチで国際法を論じることもできるし、社会学的なアプローチで経済を切ることもできる。そうすることで、ある問題に対して、多様な視点をもたらすことこそが、文系学問の真価であるとぼくは思うのだが、現場の人たちからすると、どうもそうではないらしい。
そして、そんなかたくなな態度が、文系学問の衰退に繋がり、ひいては今回のような見直しの対象になってしまったのであろう。文系の学問そのものが悪いわけではない。悪いのは、そこに関わる人たちの学問に対する不誠実な態度である。
そんな彼らこそ、ぜひとも「ぼく愛」を読んで、恋愛工学を学ぶことが必要だ。そして、妙ちきりんなプライドを、捨て去ろうではないか。
非モテコミットから脱出する為に、ストナンに繰り出すのは、、、今!