思考錯誤

これは、俺の人生の軌跡だ。

僕が受動的で、主体性がない理由

3月で契約が満期終了いたします。

エージェントとかに登録して、ちょっと就活を始めてはみたものの、毎日鳴り響く携帯に嫌気がさしたのと、紹介される求人があまりにも多様すぎて(例えば不動産とか飲食とかSVとかキャリアコンサルタントだとか、例えば不動産とか飲食とかSVとかキャリアコンサルタントだとか、例えば不動産とか飲食とかSVとかキャリアコンサルタントだとか、例えば、、、)、「ああ、この人たちは僕を自分のノルマを達成するための商品としか見ていないんだな」と気づいてしまい、登録したエージェントの連絡を無視しつけること一週間が経ってしまいました。

職場で大きなミスを起こしてしまい(そもそも契約社員の一般事務員にやらせるような仕事じゃねーだろそれ!的な無茶苦茶理不尽なものなのだが、それは引退したらオブラートに包んで暴露しようと思う)、落ち込んでエージェント対応どころじゃねーなというわけである。来週一週間くらいは苦しい状況が続きそう。あー早く引退したい。

 

退職金がいくばくか出るのと、任期満了だと確か失業保険もすぐもらえるから、とりあえず2、3ヶ月はシェアハウスとかでゆっくりしようかなと考え始めました。ああ、ダメ人間まっしぐら。

 

さて、表題の件。

 

今の職場で、僕は主体性がないとよく言われている。

まあ、一般事務員に主体性も何もないのだが(そして、会社もそれを求めていないっぽい)、確かに僕は受け身だ。

自分で「こうした方がいいと思います」と提案したことは皆無だし、大体言われたことを必死にこなしていれば1日が終わる(残業付き)。

もちろん自分の業務をいかに早く、楽に終わらせるかを考えることには全力を注いできたし、おかげでエクセルを使った裏技みたいなスキルはだいぶ身についた。まあ、再現性がなさすぎてブログに書けないのが残念なところだが。

 

さて、僕はなぜ受動的で主体性がないのであろうか?

その理由の一つを、phaさんと伊藤洋志さんの共著「フルサトをつくる」を再読していて思い出した。

 

フルサトをつくる: 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

フルサトをつくる: 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

 

 

この本の中で、伊藤さんがいじめの問題について言及した箇所がある。

曰く、

いじめの背景にあるのは、子どもの生活に学校が占める割合が過剰で、それが閉鎖空間であるという「環境問題」なの

だという。

子どもにとって学校という空間が全てで、その学校というコミュニティに認められないということは、すなわち自らの存在を認められないということだ。

いじめられた側は、自分という存在が世の中にとって不要だと感じる。本当は全然そんなことはなくて、ちょっと外に目を向ければ、自分にとって居心地のいい空間はあるんだけど、子どもにとってそれを認識することはほぼ不可能だ。

 

僕も小さな頃はいじめられていた。

とても人見知りをする性格で、保育園でもほとんど喋らず、隅っこで大人しくしていたことが、一つ上の人たちの目に付いた。

最悪なのは、その人たちとは小学校が終わるまでの9年間、ずっと一緒の学校に通わなければならなかったということだ。田舎だったから、子供の人数も少なく、クラスも各学年に一つだけ。同い年の人たちも、そんな僕が気に入らずに、疎ましがられていた。

僕は、僕の存在を否定され続けた。

クラスで何かを催す時、大体は運動ができたこの意見が通った。僕は意見を言うことを求められていなかったし、仮に何かを言えば、「何生意気なこと言ってんだよ!」と一蹴され続けた。そこに建設的な議論など何もない。先生もそんなの関心なかったしね。

 

幸いにも勉強ができたからか、そこまで関心を持たれていなかったからか知らないけど、TVで取り上げられるようなひどいいじめは受けてこなかったし、小学校高学年にもなれば、体も大きくなったし、どうやら僕をいじめていた人たちとは比べ物にならないくらい勉強も得意だということが判明してきて、表立ったいじめはなりを潜めた。

勉強が得意だったと言っても、東大や京大に受かるほどのものではなく、地方国立大学に一浪して受かる程度のものだったということは、改めて記しておこう。僕はそこまでハイスペではない。

 

でも、幼少期に自分の存在を否定された心の傷は思いの外大きく、僕は元来の性格もあって、なおさら引っ込み思案の性格になった。僕ごときが意見を言って良いわけがない。何か生意気なことを言ったら、またあの時の辛い思いをしなければならない、、、そんな思いが、僕の中にまだ根付いているのだろう。

だから、いわゆる学校社会がそのままスライドしてきたこの社会に、僕は未だに馴染めていないのだと思う。学校でもヒーローで、会社でもエリートな人たちと僕は、違った種類の生き物だ。僕が生意気に意見していいはずがない、そう言った思いがあるから、僕は今の会社で受動的で、自ら主体的に動こうとしないのだろう。

 

もうこれは呪縛だよ。

 

ただ一つ希望があるとすれば、僕だって自分が居心地がいいと思うコミュニティ、自分が認められていると感じるコミュニティでは主体的だ。

いつでも受け身なわけではなくて、身の丈にあった、気の合う人たちとの間では、僕も生き生きと活動することができるのだ!

これは大学生になった時に気付いたのだが、僕にとっては大きな発見だった。

まあ、何が言いたいのかというと、今所属している会社やコミュニティで主体的でないって言われても何ら気にする必要はないということ。それはあなたが悪いんじゃなくて、たぶんそのコミュニティがあなたにとって合っていないだけ。

ソースは俺。

誰か一人でもこのエントリを読んで、生きる力を取り戻してもらえたら幸いである。